厚木市 勇善会 空手道 スポーツ少年団
勇善会
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2024.4.4

1938年、沖縄から神奈川県に移住してきた武士泉川寛喜(1908-1967)が本土初の唐手術那覇手(剛柔流空手)の専用道場を開設しました。本書は、その武術が本土でどのように普及し弟子たちによってどのように継承されていったのかを本格的に調査した初の研究書で著者はカナダ人です。(英文221ページ)

 剛柔流は、中国武術と沖縄の技法が融合した体系的な空手です。しかし日本ではその歴史への関心は高くはありません。私は本書の原稿(2023年)を受け取ったとき、掲載された16名の師や先輩のうち13名がすでに故人となっていることに衝撃を受け、彼らを歴史に残し、勇善会の活動を世界に伝える一助になればとの思いで校閲を引き受けました。

 著者は2019年に来日して各地で実地調査を行い、収集した膨大な文献資料を読み込んで本書を完成しました。外国人研究者が英語で執筆し海外で出版したからこそ実現した研究書といえます。私も初めて知ることが多く、とくに東恩(とうおん)流との交流が明らかになったことで勇善会に伝わる型について改めて納得する部分がありました。 Amazon USAで40ドル。→参照空手の歴史

 私はこの研究書の続編といえる「Comprehensive Study On Traditional Karate Goju-Ryu」を弟子の協力を得て2026上半期にアメリカから出版します。
2023.12.27
 加藤勇先輩(1941-2023)を悼む 

「勇善会」という名称は加藤「勇」、長沼「善秋」両師範の名に由来します。加藤勇師範は勇善会の会祖の一人であり、長沼善秋会長の兄弟子・先輩にあたります。


1941年東京生れ。法政大学卒。高校生の時に泉川寛喜範士(※)に入門し、沖縄伝剛柔流空手の修業を開始しました。
※那覇出身の沖縄空手の大家であり、戦後の沖縄剛柔流筆頭といわれる比嘉世幸範士の一番弟子)


全空連大会がまだ存在しない時代、日本空手道連合会全国大会第1回大会で型優勝。以後、第2回~第5回大会でも型・組手において準優勝、三位、優秀選手賞などの成績を収めました。空手草創期を代表するトップファイターの一人でした。

当時は安全具のない素手素面の時代で、投げや崩しの許容範囲も広く、各流派の特色を生かした組手が競技でも行われていました。




加藤師範は、基本・型・分解・組手・実戦・武器術が連動した稽古を重視し、「型の技は実戦でも競技でも使えなければ意味がない」と常に語っていました。そして実際にその技を試合でも用い、その姿勢を長沼会長をはじめとする後輩たちにも指導しました。

よくも悪しくも実戦志向の強かった昭和の空手家の最後の世代に属し、治安の悪かった当時の東京下町で暴力から人を守り、警察から表彰されたこともありました。

また兄弟子の荒川武仙(1929–2016)師範とも親しく交流しました。荒川師範はヌンチャク、棒、サイ、トンファーを得意とした沖縄古武道の大家で、双幹流双節棍道(ヌンチャク)の宗家として知られています。

加藤師範は、日本刀との戦いを想定した沖縄伝統の棒術をはじめ、ヌンチャク、サイ、トンファー、二丁鎌などの古武道の稽古にも熱心に取り組みました。
享年82。合掌。


2024.8.27補足
 簡単な空手の歴史 

 空手は、中国武術の影響を受けながら沖縄で生まれた琉球の武術です。はじめは「空手」という名称ではなく、単に手(てぃー)」とか「唐手(とうでぃー)」と呼ばれていました。琉球王国の時代には、国王や中国からの使節団の前で型を演武できることが、沖縄武士にとって重要な資質の一つとされていました。

明治時代になると、「手」は地域的な特色によって那覇手(なふぁでぃ)、首里手(すいでぃ)、泊手(とまいでぃ)に区分されるようになります。那覇手は「円の空手」、首里手は「線の空手」といわれ、技法や動きにかなりの違いがあります。那覇手の系統が、現在の剛柔流です。

 明治38年(1905)、沖縄県学務課は沖縄の小中学校の体育で教える武術として、その名称を「唐手」(からて)と正式に定めました。「唐手」は大正時代中期になると「唐手術」として本土にも紹介されるようになりました。

 昭和4年(1929)、唐手術那覇手が本土に伝わった際、流派名を問われました。柔道や剣道以外の日本武術には流派名があるのが当然とされていたためです。そこで本土では、その技の特徴から「剛柔流」と名乗るようになりました。その後、本土では糸東流や和道流なども形成されました。
 昭和11年(1936)、沖縄県学務課は表記を「唐手」から「空手」正式に変更しました。「唐手」では中国武術と混同されやすいためです。

 第二次世界大戦(1941–1945)で沖縄は悲劇的な戦場となり、さらに1972年までアメリカ軍の統治下に置かれ、本土との往来も容易ではない地域となりました。その復興の過程で、首里手の系統から小林流(少林流・松林流)が結成され、那覇手の系統からは上地流が現れました。
 一方、本土では松濤館流や剛柔会などの組織が形成されました。勇善会は、戦前に本土へ伝えられた剛柔流の流れをくむものであり、戦後に成立した剛柔会とは異なる系統です。
 21世紀の空手界は、多くの会派や団体に分かれ、新しい流派も次々と生まれています。沖縄にルーツを持たないカラテや、キックボクシングなど他の格闘技から派生したカラテも現れ、流派の数は数えきれないほどです。海外で生まれたカラテも含めれば、その全体像を把握することはほとんど不可能なほど多様化しています。

 参考文献:「唐手から空手へ」金城裕(日本武道館、2011年)


型の名称

 空手については、古い時代の文字記録がほとんど残っていません。そのため型の名称も必ずしも一定しておらず、例えばセイエンチンという型についても、遠い間合いの敵を鎮めるという意味から「征遠鎮」、敵を引き寄せて戦うという意味から「制引戦」など、さまざまな書き方が口伝として伝えられています。

 現在でも型名はカタカナ表記が主流ですが、近年は源流である中国拳法との比較研究や、空手史の研究が進んでいます。その結果、剛柔流と白鶴拳(はくつるけん)や羅漢拳(らかんけん)など中国拳法との関係も指摘されるようになりました。前述のセイエンチンも鷹拳の系統に属し、本来は「青鷹戦」と書くのが正しいのではないか、という見解も示されています。

 このような研究は、型を鍛錬する際の理念を理解するうえでも、また型の用法を考察する際の重要な手がかりとなります。

(図は、剛柔流一門に伝わる沖縄伝「武備志」より。剛柔流の歴史や思想、型の成立や使用法を研究する際の重要な史料です。)

主要参考文献:
金城昭夫『空手伝真録 上巻・下巻』(株式会社チャンプ、2008年)


2019.8.2 巻き藁(まきわら)

勇善会 これは「まきわら」と呼ばれる、空手を代表する練習用具の一つです。これを用いて正拳や手刀をはじめ、手足のさまざまな部位を鍛えます。ヒノキの柱で作られており、上にいくほど薄くなる構造になっています。先端には皮が巻いてあり、その部分を突いて鍛錬します。

 空手の技は、鍛えられた素手の正拳で打つことを前提として作られています。巻き藁の鍛錬を行うことで、空手の突きが、足元から生まれた力が腰・背筋・肩を通って拳へと伝わる全身運動であることがよく理解できます。

 巻き藁の稽古では、突いたらすぐに引くという動作は行いません。突いた瞬間に肩と肩甲骨の働きで拳を押し込み、巻き藁の弾力によって拳が跳ね返ってくる力に合わせて引き手を行います。

写真をクリックすると、打ち込みの動画を見ることができます。

勇善会
















 空手の突きは、当たった瞬間と、押し込んだ瞬間の二つの衝撃のピークがあります。中段を突くときは背骨を折るつもりで、上段を突くときは後頭部へ正拳が突き抜けるつもりでと古来言われています。


 環境が整うならば巻き藁鍛錬はするにこしたことはありません。型の拳の使い方を知ることができるからです。